地域の子どもたちを守り続けてきた「飛び出し人形」その発祥は滋賀県?
全国各地の街かどで見られる交通安全啓発のために設置された「飛び出し注意」の看板。ドライバーに子どもやお年寄りによる飛び出し注意を訴えるこれらの看板には、「飛び出し注意」というシンプルな文字だけのものから、男の子や女の子をかたどったもの、さらには誰もが知るアニメキャラクターを借用したものなど、さまざまなものがあります。交通安全を願う人々と地域の団体(交通安全協会、社会福祉協議会、町内会・自治会)などが自発的に設置しているものです。 「飛び出し注意」の看板には男の子や女の子をモチーフにしたものが多いので、巷では親しみを込めて、「飛び出し坊や」とか「とび太くん(飛び出し君、飛び出しくん)」、「飛び出し小僧」などといった愛称で呼ばれていたりもします。イラストレーターの「みうらじゅん」氏ら著名人の注目もあり、最近ではインターネット上で「飛び出し注意」の看板をおもしろおかしく話題にしているホームページも多く見られるようになりました。 この「坊や」をモチーフにした飛び出し注意の看板のスタイル。実はどうやらその発祥の地が、Mahorovaが拠点を置く滋賀県の東近江市あたりだというのです。これはあくまでもネット上でいわれている噂の域を出ない話なのですが、「飛び出しぼうや」は、西日本、特に近畿地方に多く確認されており、なかでも滋賀県はその普及率が驚くほど高いとの指摘が大勢の熱心な観察者の皆様からなされています。 確かに、昔からこの「坊や」の看板のことを「飛び出し人形」と呼び、各地域ごとで設置運動に尽力している滋賀県では、人でにぎわう街の中心部から過疎化が進む山あいの小さな集落にいたるまで、どんなところでもかならずその姿を見かけます。「飛び出し人形」を目にせずに滋賀県内を通り過ぎることは、高速道路を利用しないかぎり不可能なことと言ってもいいでしょう(2015年追記:2014年に名神高速道路草津SAにとび太くん看板が設置されました)。それほどまでに「飛び出し坊や」こと「飛び出し人形」が普及している滋賀県ですから、確証はないものの滋賀県が発祥の地という説が濃厚な訳もうなずける話です。 日本全国にいつの間にか広がり、いまや星の数ほどもあるのではないかというほどに増殖した「飛び出し坊や=飛び出し人形」の看板の数々。事故を防ぐためにも気を張って運転しなければならないのですが、個性あふれる表情の「飛び出し坊や」を見るとついつい気をとられてしまう、というような人もきっといることでしょう。 そんな愛らしい「飛び出し坊や」について、たどり着けるかぎりの起源を探ろうと、関係各機関等に問い合わせてお聞きしたことを以下にまとめてみました。 お話を伺った先は、滋賀県警交通企画課様、財団法人滋賀県交通安全協会様、社会福祉法人東近江市社会福祉協議会様など、滋賀県内の諸機関・諸団体、そして「飛び出し人形」を製造・販売されている久田工芸様です。
交通事故が急増した高度経済成長期に滋賀県に颯爽と現れた「飛び出し人形」
それは今から30年以上も前のこと。昭和30年代から40年代にかけて高度経済成長期にあった日本では、車の交通量が急激に増加し、全国で交通事故が増え続けていました。子どもの飛び出しによる事故も多く発生したため、その対策が急務となっていました。“交通戦争”という言葉が頻繁に使われるようになったのもこの頃のことです。 そんななか、滋賀県旧八日市市(現・東近江市)の社会福祉協議会が中心となり、急増していた子どもの飛び出し事故を未然に防ぐ啓発活動を展開するという計画が持ち上がりました。当時、同社会福祉協議会から相談を受けた、看板製作業の久田工芸さんが啓発資材の製作を請け負うこととなり、代表者久田泰平さんの手によって、「坊や」が飛び出す様子をかたどった「飛び出し注意」を促す合板製看板、いわゆる「飛び出し人形=飛び出し坊や」が考案されました。昭和48年(1973年)のことだそうです。 この経緯については、現・東近江市社会福祉協議会の地域福祉課長・眞弓洋一さんをはじめとする職員の皆さんのご尽力により、同所書庫内に保管されていた当時の資料が発見され、その詳細が明らかになりました。驚くべきことにその資料のなかには、「飛び出し坊やの歴史」を語る上で第一級の資料と呼べるものも含まれていました。 それはなんと、滋賀県初のものと断言できる「飛び出し人形」が、旧八日市市内中心部の道路沿いに設置されている様子を撮らえた写真だったのです。つまりは、日本初の「飛び出し坊や」を記録した写真ということになるのではないかと考えられます。
当時の資料をもとに、「飛び出し人形」を考案した時期の記憶があいまいとなっていた久田さんに、眞弓さんがひとつひとつ確認を取っていったところ、久田さんの記憶も徐々に甦り、最終的には記録とのつじつまがぴったりと一致するに至ったそうです。また、久田工芸さん側にも、同時期に同社会福祉協議会から初めて「飛び出し人形」が発注されたことを示す書類が残っていたことがわかり、写真にあった第一号の「飛び出し人形」が久田泰平さんによって製作されたことが判明しました。 久田さんの話によると、当時すでに横断歩道などに設置されていた立体型の「横断旗人形」のようなもので、コストを抑えながらも啓発効果の高いものを、との依頼が同社会福祉協議会からあったといいます。その要請に応えるため、街を何度も歩き、さまざまな看板を参考にしながら検討した結果、高価だった「横断旗人形」に替わる啓発資材としてこの合板製「飛び出し人形」を編み出したのだそうです。
昭和48年6月に「坊や」と「おんなの子」をかたどった11体の飛び出し人形が作られたことが記録からわかっています。久田さんの記憶では、当時、前述の「横断旗人形」や四角いブリキ板に描かれた「飛び出し注意」看板などはあったようですが、坊やが飛び出す様子をかたどった、いわゆる「飛び出し坊や」の看板は滋賀県には存在しなかったとのことです。少なくともこのスタイルの看板は、久田さんが誰か別の製作者が作った看板を見て模倣したものではなく、独自に考え出したものに間違いはないといいます。 ただ、他府県でも同じような看板が別の経緯で同時期に作られていた可能性も否定できず、滋賀県から「飛び出し坊や」の看板が広がっていったのかどうかについての真相はいまだ解明されていません。今後、この情報が公開されることによって、他府県での「飛び出し坊や看板」の発現の経緯に関する情報が明らかになってくることを期待しています。
「飛び出し坊や天国」となった滋賀県
「第一号飛び出し人形」が誕生した昭和48年以降、「飛び出し人形」は旧八日市市周辺に次々と設置されていきました。このときの設置運動の資金源としては、旧八日市市社会福祉協議会の「法外援護費」が活用されています。これは、当時の既存制度でカバーできない時流の課題に対応するための緊急措置的な財源だったため、後に恒久的な対策を採るために「赤い羽根共同募金」の「児童福祉対策費」が財源として充てられるようになりました。 旧八日市市で始まった設置運動は、さらにその後県内各地に飛び火し、滋賀県中に広がっていきました。いまでは、滋賀県は「飛び出し(坊や)天国」「飛び出し坊やの聖地」とでも呼べるほど多くの「飛び出し人形」が見られるようになっています。 久田さんが考案した「飛び出し坊や」の看板は、第一号の図柄から少し形を変え、すっきりとまとまった「とび太くん」(本名:飛出とび太)※のデザインとなって、いまも久田さん自身の絵筆によって一枚一枚丁寧に描かれ続けています。滋賀県はもとより、京都府、福井県、岐阜県、三重県など隣接府県に納入する場合もあるとのことで、この「とび太くん」の勢力はかなりの広範囲にわたっているようです。 現在、滋賀県内では久田工芸さんのほかにも、社会福祉協議会などの公益団体から委託された業者さんが作る看板のほか、PTA、自治会など地域組織によるお手製のもの、また、それらの団体が、久田工芸さんで型抜きされた図柄を描く前の状態の「とび太くん」看板を購入し、フリータッチで似た図柄を加えたものも多く存在します。長年にわたる設置運動のおかげで、地域ごとに多彩な顔ぶれの「飛び出し坊や」たちが飛び出しまくっています。最近は、「飛び出し人形」をプレス機で大量生産する事業者さんも登場し、滋賀県内のホームセンターなどで販売されているほどです。
ここ何年かの間、「飛び出し坊や」がネット上などで話題になっていますが、日本一設置数が多いとも、その発祥地とも噂される当の滋賀県の住民の間では、あまりに当たり前の風景になりすぎていたためか、そのことを話題にするようなことはほとんどありませんでした。ただ、このところ各メディアなどで話題にされることも増え、県民のなかにも「飛び出し人形は滋賀の名物やったんやぁ…」と県外からの熱い眼差しを受けて反応する人々も増えてきたようです。 ※「とび太くん」:もともと久田さんが発案したときにはこの坊やのデザインしか存在しなかったため、「飛び出し人形」そのものの名で呼ばれていました。現在は「飛び出し人形」にもいろいろなデザインがあり、ほかとの区別がつくように「飛出とび太(とびだしとび太)」という本名と「とび太くん」という愛称をもっています。⇒とび太くんプロフィール
「飛び出し坊や」の存在意義とは?
滋賀県警交通企画課の話では、平成6年以降の県内の交通事故件数の推移をみると、「飛び出し人形」の普及が子どもの交通事故減少の一役を担っているのかどうかについては、統計的には証明されていないとのことだそうです。平成6年から現在にいたるまでの交通事故全体の件数は、ほぼ横ばい状態が続いているとのお話もいただきました。ただ、交通事故による滋賀県内の死亡事故件数の推移で見ると、史上最多だった昭和44年の255人に対して平成21年では65人と、かなり減っていることは興味深いことです。 長年にわたる県内道路事情の大幅な改善やドライバーの運転マナーの向上、子どもたちへの交通安全啓発の成果ほか、そもそも子どもたちがあまり外で遊ばなくなったこと、さらには少子化の影響などが複雑に絡み合い、ここ数十年の間に子どもが致命的な交通事故に巻き込まれる割合は多少なりとも減少していることと思われます。 その一役を「飛び出し坊や」が担ってきたと考えることはできないのでしょうか? 統計では確証を得られないということですが、おそらく、滋賀県内では「飛び出し坊や」があまりに目に付くために、「飛び出しには気をつけなければ…」というサブリミナル効果のようなものがドライバー、子どもら双方の潜在意識に働いて、被害の大きい交通事故が減少しているというようなこともあるのではないでしょうか?
高まりつつある「飛び出し坊や」への関心とその理由
数十年も前から存在した「飛び出し坊や」ですが、ここ最近、「飛び出し坊や」に対する関心が急速に高まってきています。なぜいまになって注目されるようになってきたのでしょうか。そのことについて考えてみたいと思います。 「飛び出し坊や」のファンは、ユーモアたっぷりの視点で「飛び出し坊や」のことをとらえています。確かに、「飛び出し坊や」にはさまざまなものがあり、気をつけてみていると、作った人のあふれんばかりの思いが伝わってくる看板のなかには、勢いが余ってしまったためか思わず吹いてしまうような絵柄のものもよく見かけます。
現代の日本は、さまざまな面で「効率化」「均一化」「合理化」「機械化」「人工化」が図られ、整然として規格化された社会になってきました。その一方で、隙間のない社会には人のぬくもりを感じられるような生活風景が年を追うごとに少なくなってきたようにも見えます。そんな時代に、昭和から平成にかけて増えてきた手作り感満載の「飛び出し坊や」のある風景は、ほのぼのとしてどこか懐かしい昭和の薫りを漂わせ、見る者の心を和ませてくれます。 「飛び出し坊や」を愛でる感覚というのは、かつて日本のどこにでも見られた人情味あふれる生活風景に対する郷愁のようでもあり、その背景には、画一化され、殺伐としてきた社会に対する不安感からの、一時的な解放を求める心向きがあるからなのではないでしょうか? ちょっと小難しくて唐突な話かもしれませんが、高尚な文化人類学という別の角度、視点から「飛び出し坊や」という存在を考えてみると、八百万神を戴く日本の風土文化を背景に、偶像崇拝的思考様式から生み出された象徴的な文化事象のひとつと言えるかもしれません。 「飛び出し坊や=飛び出し人形」を設置する人々の活動は、もはや、交通安全を祈願するために行う奉納・供養行事の意味合いさえ帯びているようにも見え、まるで古くから連綿と続いてきた道祖神信仰にも通じているかのようです(もちろん、ご活動されている方々みずからが、そのように自覚されていることはないことと思いますが…)。あるいは、子どもたちの身代わりとして「人柱」の役割も担わされているのかもしれません。 そういった意味でとらえても、「飛び出し坊や」には日本人の情緒的感性に訴えかける何かがあると言えるのでしょう。
「飛び出し坊や」よ永遠に…
「飛び出し坊や」には今後も子どもたちの命を守るために活躍し続けてほしいのですが、「飛び出し坊や」をよく見かける古くからの集落では、急激な高齢化・過疎化で皮肉にも子どもの姿を見かけることがめっきり少なくなってしまいました。そのためか、いまでは「飛び出し坊や」ならぬ「飛び出しおばあさん・おじいさん」が増えつつあります。このまま「飛び出し坊や」が「飛び出しおばあさん・おじいさん」に取って代わられて消えていくことのないことを祈るばかりです。 元来、交通安全を訴えるためという重大な使命を帯びてこの世に生まれ出てきた「飛び出し坊や」。たくさんの子どもたちの犠牲の上に「飛び出し坊や」は誕生しました。そんな背景にも少し思いを馳せながら、これからもかわいらしい面々の「飛び出し坊や」を、末長く愛し続けていきたいものです。
*とび太くん関連情報は
もご参照ください。また、とび太くんに関するお問い合わせはお気軽にMahorovaまでご連絡ください。
The “とび太くん” logo &“とび太くん”® are registered trademarks of J. Kawamura(Mahorova).